bur@rt 〜ぶらっとアート〜※βversion

for all art lovers

メニュー

【個展】変幻する巧みな筆〜多田恋一朗「ワールドラリー」@TAKU SOMETANI GALLERY

89 views

浅草橋のギャラリー「TAKU SOMETANI GALLERY」にお伺いしました。

こちらのギャラリーは2018年5月に出来た新しいアートコンプレックス「BAKUROCACTUS」の4階に入居しています。エレベーターが無いのでせっせと階段で昇っていきました。

多田恋一朗

多田さんの作品は最近も藝大の卒展で拝見して注目しておりました。

独特の筆運びが印象的で、流行の美人画とは一線を画す内面が滲み出てくるようなエモーショナルさが感じられてグッと引き込まれる作品でした。

第66回「東京芸術大学卒業・修了作品展」 第66回「東京芸術大学卒業・修了作品展」の初日に伺ってきました。 学部卒、院卒、各学部、それぞれの作品を見て回りましたが、やはり修
入口には藝大でも展示されていたアディダスバッグがありました。

ワールドラリー

本個展のキーワードは「2つの相反」。

ラリーのように行き交う現実と妄想を、絵画と立体2つの作品で表現した展示の構成です。※ステイトメントは記事文末に引用掲載しております。

作品の販売もセットで行われていました。

写真奥の作品から、それぞれ向かい合う絵画と立体作品が2つで1セットになっています。

DMにも採用された本個展の目玉作品「人−1」は既に売約済み(下写真の一番左)。生で作品を見ると、絵の具の置き方や色使いが絶妙で惚れ惚れするタッチです。今回の個展では最も素晴らしい作品として心に刻まれました。

左:人-1 中:ブレる人 右:人-2
とっても良い絵ですね!

作品を良く見ると女性の顔を描いた作品がほとんどなのですが、表情や筆の使い方が全て異なることに気がつきます。

左:口を開ける人 右:海辺の人-2

描き方が違うので、作品の印象がそれぞれ異なります。とても巧い作家さんだなぁということが分かります。

左:海辺の人-1 中:溶けゆく少女  右:こちらを見る女
作品全てが木の枠に収められていました。
「千代田線で見たヤンキー」

立体作品の方は木枠を変形に組み合わせ、テンションかけて布を張り、立体的なキャンバスを作り上げていました。対応する作品にあわせた着色のように感じました。

ペインティング作品と向き合うように居並ぶ立体作品。
本個展のステートメントを表現したようなドローイング
ドローイング作品

ドローイング作品に隠れるような場所にも作品が展示されていました、その名も「視線」というタイトルです。

視線

 

artist stetment

絵画空間の秩序を本能的に盲信して「肉体の無い人格」が存在する世界を創造する行為は「妄想」と呼ぶに相応しい。

絵画空間の秩序を理論的に解体して「肉体の無い人格」が存在する世界を破壊する行為は「現実」と呼ぶに相応しい。

「妄想」に全神経を集中させた場合、その果てに待っているのは「肉体の消滅」(自殺)である。

「現実」に全神経を集中させた場合、その果てに待っているのは「感覚の消滅」(退屈)である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

[私の実感は、テニスの「ラリー」のように、二つの「現実」を行き来する]

中学生時代のある日、教室の隅の席に座っていたユカリという女の子が学校を休んでいた。当時たくさんの人が作っていた自己紹介用のモバイルサイト。ユカリのページのコメント欄には複数の誹謗中傷が書き込まれていた。学校中で話題になり、その日の放課後には誰が犯人なのかはすぐに判った。ユカリと同じ吹奏楽部に所属するユミという女の子だった。ユミは一人で複数の投稿をしていた。みんなが集団いじめだと思っていたそれは、たった一人が持った悪意だった。

ユカリを不登校に追い込んだのは「誰」なのだろう。裁かれるべきはユミで間違いないが、ユカリの中に居たのはユミじゃない。複数の人に存在を否定されるような疎外感。その複数の「人」はユカリの中にしかいない。幽霊でもなければ鬼でもない。人として想定された肉体を持たない人格。ユカリの目には人の温もりを持たない無機質な顔が並んで視えていたのではないだろうか。

相手の「主人格」に在る真意と自分の解釈の間には常に「ズレ」がある。だから「あいつはいい奴だ」と言って作り上げた「肉体の無い人格」は、相手の「主人格」とは似て非なるものになる。ただ、表情や声色やジェスチャーを介して行われるコミュニケーションにおいての「ズレ」は僅かなもので、実害が生まれるほど見当違いな「肉体の無い人格」を形成するということもなかった。たまにちょっとした勘違いが生まれることがあっても、それは会って話せば解決する程度のものだった。

「ズレ」の在り方に変化を感じたのは携帯電話を手にして友達とメールをするようになってからだ。SNS上で行われる顔の見えないコミュニケーションには表情も声色もジェスチャーも無く、秒単位で行き来していたはずの言葉のキャッチボールは分単位から日単位で行われるようになった。簡易化された相手の言葉を元に時間をかけて相手の真意を読み取ろうとすれば当然自身の解釈の中に細かい誤読は生まれ、相手はさらにそれを誤読した。そんなやりとりを積み重ねていくウチに「ズレ」は徐々に大きなものになっていった。次第にSNSきっかけの喧嘩も増えた。対面して行われる従来のコミュニケーションでは、分けて考える程でもなかった主人格と肉体の無い人格の「似て非なる関係」は、混同して考えると実害が生まれるほど「解離した関係」になっていた。

最初はメールなどで受動的に作らざるを得なかった「肉体の無い人格」も、twitterやInstagramなどの流行りのSNSを追ううちに自発的に作るようになっていた。アイコンで、紹介文で、投稿で、画像で「肉体の無い人格」を彩った。無自覚に、あまりに自然に、「主人格」と「肉体の無い人格」を分けて考えることは、ある種の習慣のように自身の生活の中に根付いていった。

他者に対しても自身に対しても、人格を二分化して考える習慣は、それまで無かった新しい感覚を生んだ。一人でTwitterで呟く夜、友人と話していた昼の自分が別の人間のような感じがした。友人と話している昼、Twitterに投稿された夜の自分を友達との会話のネタにした。片方に「現実」としての実感がある時、もう片方を「非現実」として処理する、離人症のような感覚。苦しくもなければ楽しくもなく、ただ、当然のようにそのサイクルは生まれた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「ワールドラリー」は、この感覚を軸に進める「絵画」の展示だ。「空間性に在る」と言い切ることも「平面性に在る」と言い切ることも出来ない、定位置を持たない私の実感を示すための展示だ。相反する実感を一つの実感として鑑賞することは奇妙なことだろう。ただ、それが人なのだ。バグが生まれないように何かに成り切っているだけで、本当はいくつもの矛盾を抱えている。二つの人格、二つの世界。二律背反の情景を可視化させることこそが、私にとっての「人間の証明」なのである。

(2018.7.4)

 

 

概要

多田恋一朗
「ワールドラリー」

2018年07月24日 ~ 2018年08月23日
開館時間: 12:00〜18:00

※日曜日・月曜日・8月17日〜20日は休館

オープニングパーティー 2018年8月4日17:00 から 20:00 まで

 

Leave A Reply

*
*
* (公開されません)

Share / Subscribe
Facebook Likes
Tweets
Hatena Bookmarks
Google +
Pinterest
Pocket
Evernote
Feedly
Translate »